FUMI NAGASAKA
photographer
ISSUE 1 2024 SS
ニューヨークを拠点に活動する日本の写真家・長坂フミは、普段から日常の人々のドキュメンタリー写真を撮り続けている。毎日の生活の中で出会う人たちからパーソナルな話を聞き、誰もがそれぞれに素晴らしい人生のストーリーや抱える想いがあることを知り、そのエピソードに影響され、刺激をもらっている。今回は、アイデンティというテーマから長坂自身がより関係性を感じる6組の友人たちにインタビューをしてくれた。彼女との繋がりによる彼女にしか捉えることのできない写真とともにそれぞれのストーリーをお届けする。
Bud, Ava & Violet
WALKER COUNTY, ALABAMA
バド:2022年の9月に僕らの娘のヴァイオレットが生まれて、生活が一変した。アヴァが妊娠しているとわかった時、僕も彼女もまだ学生だったんだ。アラバマのこの街、ウォーカー郡にあるドラ高校のね。
アヴァ:バドは16歳、私は17歳。妊娠に気づいたのはいつかって? 体調が変だと思って妊娠検査薬でテストしたの。そしたら陽性で。産婦人科に行って診てもらったら、すでに8週間目になっていて。その時の気持ち? いろんなことがごちゃ混ぜで、思わず泣いてしまってた。恐れもあったし、混乱もしていたし……だってまだ10代。そう、学校に通っていたんだもの。祖父母にどう話したらいいのかってうろたえちゃった。
バド:検査結果を知った時は、自分が妊娠しているのかと思ったよ。腹が痛くなってきたんだ(笑)。ともかく、まずは自分たちの家族に伝えることにした。僕の両親は僕が1歳になった頃に事故で他界している。だから、家族というのは一緒に住んでる父方の祖母、アンのことだね。ちなみに、母方の祖父母も同じ街に住んでいて、アヴァが仕事の間にヴァイオレットを世話してくれるんだ。
アヴァ:私も両親ではなく祖父母に育てられた。昔、母と私と私の双子の妹が乗った車が事故に遭って、妹が死んでしまった。それ以降、両親とは離れて暮らしてきた。父は2019年に殺人事件に巻き込まれて亡くなってしまったけれど。とにかく、今は祖父母の家に住んでいる。妊娠を打ち明けるときは「どうなるんだろう」って心配していたけど、まず祖父がとても喜んでくれた。もちろん、最初はすごく驚いていたけど。思えば私の母や叔父もティーンエイジャーで子供を持ったから、寛容なところがあったとしても不思議じゃないわね。
バド:妊娠が分かってすぐに、僕は地元のファストフード店で働き始めたんだ。出産に向けてお金が必要だからね。高校が大体午後3時に終わって、3時30分には仕事開始。そこから9時とか10時まで働いた。週末はもっと遅くまで……ハードな毎日ではあったね。今はもうそこでは働いていない。今年からアラバマ大学バーミングハム校で、会計士になるために勉強しているからね。3時くらいに学校が終わって家に帰ると、アヴァは働きにいく。僕はヴァイオレットの世話をし始める。祖父母たちの協力を得ながら、そんなふうに毎日の時間をやりくりしている。
アヴァ:今は私はウェイトレスの仕事をしているの。自分の好きなことをやるのは夜、ヴァイオレットを寝かしつけた後の時間に。時々は友達と出かけたりもしてる。ヴァイオレットはお世話が大変な時期を過ぎて、今は前よりも自分たちに余裕があると感じているわ。私たちの暮らしぶりは、まだまだインディペンデントとは言えないと思う。でも、以前に比べたら何ていうか、自信が持てるようになったし、責任感も強くなったのよ。
バド:そうだね、責任感は本当に。今までは自分の面倒を見ているだけで良かったけれど、今は何事においてもヴァイオレットがまず先だからね。
アヴァ:うん、食事もシャワーも、何でも。ヴァイオレットが生まれて、ものの見方が変わったし、学び直すことの大切さも実感してる。これは女性だからかもしれないけれど、妊娠と出産を通して自分の体がすごく変わったことが関係しているのかも。
バド:僕らは両親との日常を持ってこなかったけれど、今はいろんな親の形を見ることができる時代。例えばTikTokだね。発信している親たちもいっぱいいるだろう? そういう人々を見て感じたことや、祖父母から学んだことを糧にして、僕らの親としてのスタイルを築いている気がするんだ。将来はアヴァが働かなくてもいいように、そしてヴァイオレットが自由気ままにやりたいことをやれるくらい、お金を稼ぎたい。ヴァイオレットには彼女なりの意思があると思うけれど、父としてはカラテ教室に入ったらいいと思っていたりする。あの子の様子を見て、何となく合ってる気がするんだ(笑)。僕の目指すゴールはこんな感じ。
アヴァ:私のゴールは大学に行くこと。美容に関する専門知識を得て、それからビジネスも学びたい。自分のことにフォーカスするのはバドが卒業してからだけど、大学を出た後は自分で何か起業できたらいいなと思ってる。そして子供をもう1人か2人欲しいと思ってる。
バド:そうだね、ヴァイオレットとあまり年齢が離れないうちに。お金を稼いで安定した生活と住む家を手に入れて、家族が安心して暮らしていけるようにしたいよ。
Nigel
THE BRONX, NEW YORK
フォトグラファーやフィルムメーカーのライティングディレクターでもあり、写真家。ただ、自分のことを写真家と呼ぶのは好きじゃない。もっとぼんやりさせたいんだ。だから、単純にモノを作るのが好きなだけ。写真はあくまでも自分の活動の一つ。写真を撮り始めたのは14歳のとき。高校ではグラフィックデザインを学んで、それから世界中を旅して、たくさんクレイジーな経験をした。中東、アフリカ、北アフリカ……。エジプトではクーデターが起こっていたし、その時期の中東はかなり危険だった。個人的なプロジェクトとして、日本の祭りを撮影しているんだ。日本に興味を持ったのは、友人と2017年頃日本に行ったのがきっかけ。そこで日本の文化的行事をいくつか見たんだけど、なぜ日本人がその風景を写真に収めないのかが不思議だった。そこから日本の伝統文化にすごく興味が湧いてきた。翌年また日本を訪れて、地元の人たちを撮りまくったのだけど、ポートレイトよりも文化的なイベントの方がずっと面白いなと気づいた。そこから祭りに惹かれるようになり、定期的に日本に行って祭りを撮るプロジェクトを続けている。
日本の祭りは、ヨーロッパやアメリカの影響を受けていない、伝統文化の最後の砦でとても魅力的。その伝統が今でも人気があるのも興味深い。例えば、人を乗せた丸太が斜面を滑り落ちる御柱祭や、青森のねぶた。名前は忘れたけど、岡山や大阪の祭りなど、たくさん行った。日本には祭りがたくさんあって迷うので、通常は古い祭りを探すね。京都の伝統的なスタイルか、神輿がぶつかり合う激しいものか。ねぶたも昔はクレイジーだったけど、今は商業的になって何も起こらない。だからオールドスクールを見たいんだ。日本って退屈だけど、伝統的な祭りの時期はみんな生き生きと行動する。実生活では決してわからない、その姿を見るのが好き。僕のような黒人の男が現れたことに地元住民は驚くけど、僕らが日本文化に関心があるとわかれば、彼らは超オープンになる。たとえお互いの言語が話せなくても、僕は日本語で30語ぐらいはわかるので、それで十分。次の旅は、浅草の三社祭に行く予定。大きなヤクザの祭りだから、彼ら一族をフィルムで撮りたい。
出身はブロンクス。10代のほとんどをそこで過ごした。若い頃は最も犯罪率が高かったのはブルックリンで、貧困率が高かったのはブロンクス。今でも貧困率は高いけど、だいたいのところは歩き回れる。だけど、僕が住んでいたエリアは、黒人だった場合、白人に殴られるから、特定の場所には足を踏み入れることができなかった。
世界中を旅してきたけど、日本では、リラックスできる場所をたくさん見つけた。日本は僕が行った中で最高な場所の一つ。90年代に行っておけばよかったと後悔しているよ。今はみんなニュートラルで退屈。何もかもみんな同じ。90年代の話を聞くと、新宿がどんなにクレイジーでエキサイティングだったかがわかる。僕が育った頃は、誰もブロンクスに住みたがらなかったし、危険で汚くてここにいたくないと思っていた。だから日本でも同じだよね、80年代、90年代は写真家、アーティスト、映画にとっては黄金時代。バブルが弾けて日本は安全になったかわり に経済が下降した。人口も減り、老人の国になったから、たくさんの外国人が入ってくる。若者にとって困難な状況になると思う。80年代、90年代の日本が良かったのは、戦後、日本が低迷していた時代に育った若い世代が日本を再び盛り上げたから。それがまた起こると思う。日本は車文化が死んでしまった気がしていたけど、インスタグラムを見ていたら、地方都市や田舎では車文化が盛んになってきた気がする。だから、小さな町では、昔ながらのクリエイティビティが戻ってきているのを目にするようになると思う。
好きな日本人写真家は、渡辺克己。タカマユミもいいね。ずっと好きなのは、アーヴィング・ペン。彼はルポルタージュもポートレイトもファッションも静物もなんでも撮った。それこそが僕の視点から見たいい写真家の条 件。優れた写真家は写真を楽しんでいる。写真家は自由であるべきで、何ができるかは誰にも指示されるべきではないと思うんだ。
Majestic
BROOKLYN, NEW YORK
18歳の時に海軍に入隊して、日本の基地に配属された。軍人の仕事はハードワークだったけれど、まだ10代で日本に行けるんだから、それはもう嬉しかった。最初は長崎の佐世保で3年半過ごして、ほぼ軍の中の生活。その後横須賀に転勤になって、本格的に日本のカルチャーに触れるようになった。横浜に住んで基地に通う生活だったから、渋谷なんかにも遊びに行ったね。オンラインで知り合ったり友達づてに紹介されたりと、いろんな人と友達になった。週末にはCONTACTや、あともうひとつは名前が思い出せないけれど、クラブに行っていたね。そんな中でもとりわけ懐かしく感じるのは、街に繰り出す前に食事に行ったこと。牛角や鳥竹といったレストランで、よく1人で食べていたんだ。友人が一緒の時もあるけれど、1人で食べてる時間が思い出深い。牛角はBGMにジャズが流れていて、それを聞いているというのもまた良かった。
でも海軍にいたことは全く誇りに思ったことがない。黒人としてアメリカ政府のシステムにいたことは。このあたりについての心境は、長い間自分でもどう捉えていいのかわからないでいた。それでも日本に行ったこと、そこで色々な人に会えたことは幸運だった。楽しい時間が山ほどあったからね。音楽や絵という共通の趣味を持つ人々と一緒に時間を過ごしたし、クールなパーティにも随分行った。そういえば一度、富士山にハイキングに出かけて、凍え死ぬんじゃないかってほどの体験もしたしね(笑)。 日本での任期を終えた後は、生まれ育ったデトロイトに戻り、そしてNYに移り住んだ。デトロイトは危険だと言われてきたけど、まあその通りだったと思う。街にはギャングの暴力、ドラッグ犯罪、警察の横暴……いろいろあった。自分の親族にも、ドラッグビジネスに手を染めた者がいるけれど、それがずっと自分や兄弟にとって反面教師になっている。子供の頃は、周りの黒人よりも肌の色が黒かったことを理由にいじめられたりもしたよ。黒人のコミュニティ内であっても、肌が黒いことは差別の対象になるんだよ。そんなこともあって、家でゲームをしたり漫画を読んだりして過ごすことが多かった。結構孤独な子供時代だったね。
NYに来たのは、ファッションやアートにずっと関心があったから。ニューヨーク市立大学が運営するボロー・オブ・マンハッタン・コミュニティ・カレッジでデザインの勉強をまず始めた。軍にいたことがある人は、大学教育を無料で受けられるというサポートがあるんだ。無料の大学に入ったのは家賃補助があるからというのも理由だった。とはいえニューヨークの家賃はそれでも高いけどね。今はフラットブッシュでパートナーのアーシャと暮らしている。彼女もデトロイト出身。それがきっかけで仲良くなったけど、彼女と一緒だと自分が自分でいられるというのが大きい。
NYでの生活はお金がかかるし、時々目的を見失いそうになることもあるけれど、今は皿洗いのバイトをしながら、いろいろな可能性を探る時期なんだ。将来何を仕事にしたいかということ以上に、自分自身のあり方について考えている気がするよ。僕の頭の中にはコンピューターゲームやアートなどいろんなことがせめぎ合っている。このいろんなジャンルを一体にして何かができるんじゃないかと思っているんだ。だからそれぞれを探究し続けながら、自分の道を作るというのが今のヴィジョン。すでに用意されている道に続くのではなくて、自分で作りたいんだ。クリエイティブな領域もだいぶ変化してきているのを感じるけれど、黒人にとってはまだまだハードルの高い世界なんだ。社会全体に目を向ければ、自分たちのコミュニティのために用意されているものはもっと少ない。でも、閉ざされたドアだとは思っていない。今まで素晴らしい人たちに出会ってきたしね。ただ、目の前に障害が転がっているというだけなんだと思う。だから、それを乗り越える方法を学んで、次に来る自分みたいな人の助けになりたいと思っているんだ。
Emme
NEW YORK, NEW YORK
出身地ケンタッキー州ルイビルから、ジョージア州サバンナにあるサバンナ芸術デザイン大学に入学。3年生のとき、香港への留学を決めたのですが、中国の進出であえなく短期間で帰国。パンデミックの最中に大学を卒業 し、パートナーと共にダラス、LAを経て、2022年4月、ニューヨークに落ち着きました。
香港での日々はとても楽しかった。東京 やソウル、フィリピンなど、10ヶ国は訪れましたね。アメリカでは、アジア諸国全般やアジア文化について十分な教育が受けられていないので、旅をしながら、世界とその中での自分の立場について多く学びました。私の父はレバノン人、母はポーランド人なので、家族や慣習、儀式などの考え方はとても伝統的でした。ですが、異文化を理解するには、博物館に行って自分で調べるといったやり方しかなかった。
子供の頃は、母と家族が私の着る服を決めていて、彼らが選ぶのはすべてドレス。とにかく嫌だった。お店では男の子の洋服売り場へ母親を引きずっていったのも覚えています。兄とも仲が良かったし、友人のほとんどは男の子か、男勝りな子、あるいは今でいうノンバイナリーでした。幼馴染で現在男性になっている人もいます。私は当時もネイルやメイクといったフェミニンなものに興味がなかったんです。
初めて片思いをした相手は女の子でした。彼女に夢中になって、電話番号を聞き出して。年を重ねるにつれて、まわりの友達からの影 響が強くなり、男の子に恋心を抱くようになったのは、そうすべきだと思ったから。さらにティーンになって「自分はストレートじゃないかもしれない」と気づき始めたんです。
13歳のとき、女の子にキスしているとこ ろを母に目撃されたんです。それで母に父に言ってもらうよう頼んだんです。父はいわゆるものすごく男性性が強い人で、一家の大黒柱だったから、最初は受け入れるのに苦労したかもしれない。多くの人はもっと遅い年齢でオープンにしているから、13歳でのカミングアウトは若かったかもしれない。今、私世代の人たちは、親や社会的な意見から飛び出して、新しい挑戦に前向きになっていると思う。
その後は誰にもカミングアウトしませんでした。聞かれたら答えたけれど、SNSに投稿することもなかったし。だって、異性愛者はわざわざ伝える必要がないのだから。「ハロー。僕は異性が好きです!」って。友人からはたくさんのサポートをもらいました。意地悪なことを言う人もいなかったし。ただ、関係性が変わったので少し敬遠されているようにも感じましたね。当時は少し心が痛かったけど、おかげで自分にふさわしい人を見つける準備が整いました。
13歳のときからモデルとして活動しています。髪が長くて筋肉質、バストとヒップの曲線があまり好きではなかったけれど、「身体的な魅力がある」と言われて、いつも戸惑っていました。髪も自由に切れない、筋肉がつくからスポーツもやめなくてはならない。そんなモデルの契約を、香港に引っ越す際に完全に終わらせることにしました。香港で初めて理髪店に行って、好きな長さに切ってもらったんです。それ以来、髪は伸ばしていませんが、自分らしくいようと努力すればするほど、モデル業界ではクールだと言ってくれる人が増えてきました。
ニューヨーク移住はつねに目標でしたね。今後はまだ考えてはいませんが、いつかクリエイティブ・ディレクターのような仕事に就きたいと思っています。なぜなら、あなたは一人じゃないという事実を教えたいんです。今まで自分がやってきたことに自信と誇りを感じていますが、私はまだジェンダーに焦点を当てたコミュニティを見つける努力をしていません。ジェンダーへの問いかけは、とても深く、感情的で、孤独なもの。
以前トイレで不快に感じた経験があるんです。手を洗っていたら女の子のグループが入ってきて、クスクス笑いながら「あれ、私たち、間違ったトイレにいるの?」って。明らかに私のことを言っているけど、彼女たちは私に直接は問いかけなかった。以前は年配の女性に間違った場所にいるの?とまっすぐに聞かれたこともあります。私自身もイライラしたり、恥ずかしい思いをすると同時に、相手にも不快な思いをさせている責任を感じます。なので、プライバシーが守られた、ジェンダーニュートラルなトイレが増えるといいなと思って。
ありのままの自分でいることに悩むみなさんには、あなた自身が快適に過ごせるペースで進むこと。自分らしくいられると思う人を見つけましょう、かな。そして、クィアの人や同じようなアイデンティティを持つ人をソーシャルメディアで見つけてフォローしたり、彼らのメッセージに耳を傾けて、自分をエンパワーして進んで欲しいです。
Luiza
BROOKLYN, NEW YORK
ポルトガルのアゾレス諸島で生まれて、家族とアメリカに渡ったのが10歳になるかならないかの頃。一家で住み始めたのは、マサチューセッツのフォールリバーという街だった。そのうちに祖父母もアメリカに来て……という子供時代。10代のうちからマリファナを売ってお金を稼いでいて、17歳の時にできた初めてのボーイフレンドも同じようなことをしていましたね。その後、大学に入ってガールフレンドができたんです。当時は言うなればヒッピーの時代。学内にもヒッピー文化に傾倒したグループがあって、彼女もその一員でした。
そうして自分がレズビアンだと知った私は、同じ州内のプロヴィンスタウンへと向かうんです。プロヴィンスタウンはLGBTQコミュニティにオープンで、とても多様性に富んでいる街。ポルトガル人も多く暮らしていて、釣りも盛ん。物書きや画家のようなクリエイティブな人々も多かった。夏には大勢の人が押し寄せて人口が数倍になるというリゾート地だから、パーティ一色になる。写真家のナン・ゴールディンや俳優のクッキー・ミュラーと仲良くなって、毎日遊んで暮らしました。みんな有名になるずっと前のことね。
そこからボストンに移りコールガールを仕事にしました。その時に出会ったドラッグディーラーの男性と付き合うことになり、彼の仕事でアジアを旅しました。香港、台湾、マカオなどを巡ってアメリカに戻った後は、サンフランシスコに住むことに。当時のことでよく覚えているのは、プレイボーイのヒュー・ヘフナーの家に行ったこと。チャリティのパーティが開かれた時で、驚くほど豪華な世界だった。彼との関係は3年くらい続いたけれど最後はお互いオープンな関係になっていて、私たちはもうセックスをしないけどお互いをパートナーとして暮らしていました。それからまた女性と付き合い、住む場所が変わっていく日々。そう、腸内洗浄のセラピストの資格を取ったりもしたわね。誰もが代替医療に熱中していた時代の話ですから。
80年代終わりにはNYへ。パーソンズに通って建築を学び、バーニーズの上のアパートメントを購入して暮らしていたんです。仕事はまたコールガール。ある日、HIVの検査を受けに行ったクリニックでカウンセラーをしないかと誘われ、私の返事はYES。仕事の内容はクライアントの相談に乗ることで、確か事務処理などもあったはず。クライアントは同性愛者の男性や娼婦が中心で、あとは娼婦と浮気した夫からの感染を懸念する主婦もたくさん。検査結果が陽性の60%はゲイの男性でした。
その後マサチューセッツに戻ってからも HIV専門のコーディネーターとして数年働いていて、同じ頃にアートに興味を持ち始め美大にも通いました。現在のパートナーのリアンと出会ったのもこの頃。彼女のガールフレンドを介して親しくなったんです。リアンともパーティに明け暮れてましたね。こうした過去と比べたら、今は随分シンプルな暮らしぶり。犬たちと過ごして、メディテーションのためにぬり絵をして……そしてコーヒーがあれば言うことなし。私はポルトガル人だからコーヒーが大好きで、人生に必要なものはコーヒーとコーヒーマシンだけと言うほど。パンデミックを境に生活が内向きになってしまったので、今はもっと外へ出て行きたいと考えているところ。人に会って、旅をして……そう、自分自身の経験になることをもっとやりたい。そういえば、最近ちょうどパティ・スミスのコンサートに行ったばかり。動物の保護にももっと積極的に関わりたいですね。人よりも動物の方が好きなくらいだから(笑)。私は人生に対してこう考えているんです。自分自身でいることを恐れないで、心によく耳を傾けること。何を望んでいるのか、どうありたいのか、何をしたいのか。そして、常に一歩を踏み出すこと。歩き始めてダメなら、すぐに別の道を探せばいい。あとは良き友人を持つこと。人生は本当にたくさんの違う面を持っているから。それが楽しんで生きるコツだと思うんです。
Michael & Zac
PENSACOLA, FLORIDA
マイケル:ペンサコーラで生まれ育って、今はザックと一緒に暮らしてる。ダウンタウンにあるジュースバーで働きながら、次の仕事を探しているんだ。ザックとの出会い? 最初はメールのやり取りをし始めて、その後、ザックが通っている高校に転校して、それで仲良くなったんだ。
ザック:フロリダの暮らしは良いよね。何がって?それはやっぱりビーチ。家から1時間くらいで行けるんだ。子供時代はアラバマやジョージアを転々として暮らしてた。時には母や兄妹とモーテルで生活をしていることもあったから、スクールバスがモーテルに送り迎えに来るなんてこともあったよ。はっきり言って苦しかったね。大部分は父のせい。最低な奴なんだ、本当に。一時は両親ともに刑務所にいたりして、僕は祖父母に育てられたんだ。今は動物病院で働きながら「The Taints」というバンドをやっている。ペンサコーラのパンクシーンはこれまでも注目を集めてきたんだけど、これからさらに盛り上がるはずだと思っている。僕は歌詞を書いていて、10代のゲイのセクシャリティを主にテーマにしてきた。いくつかはもう歌えないかもしれないけど。ちなみに、僕の母も同じ動物病院の受付で働いているんだ。動物が好きかって? もちろん。今フミとZoomで話しているけど、すぐわきに犬と猫がいるよ。
マイケル:フミは僕のヘビも知っているよね。ダミアンっていう名前で、すごくかわいい。僕の子供時代? そうだね、僕も昔は大変だったよ。家族はとても敬虔なカトリック教徒で、週に何度か教会に行く生活だった。もちろん、同性愛なんて考えられない。中学は熱心なクリスチャンの学校に行ったんだけど、本当に馬鹿馬鹿しかった。まず、“世俗的”な音楽は聴いちゃいけない。ゲイやレズビアンに関わる活動に参加しちゃいけない。そんな決まりがあって、「この学校の生徒でいるならば、サインしろ」って言うんだ。“世俗的”って意味、わかる? クリスチャンの音楽以外全部……ロックやパンクなんてもちろん禁止ってこと。狂っているよね。僕は見るからにゲイって感じだったから、学校でも辛く当たられた。でも、何よりすごいのは父なんだ。僕が母に「自分がゲイだと思う」って打ち明けたのを つい耳にしてしまった彼は、キッチンから包丁を持ってきて僕に突きつけたんだよ(笑)。こうやって今は笑って話せるけど、当時は全然。鬱っぽくもなったしね。
ザック:きっとマイケルのお父さんのせいだね……(笑)。
マイケル:そうだね、両親は僕がゲイだってことを嫌がっていたからね。大人になったら鬱も落ち着いた。鬱の治療は全然効かなかったけど、自分自身がどういう人間なのかをもっと理解できるようになったからだと思う。自分を見つめる時間、インナーワークというのかな? そういうことが大事だと思ってる。自分の世話をおろそかにするってよくあることだけど、自分のケアこそやっていくべきなんだ。人生のこれからについては、もっと旅したいと思ってる。それから、アートと密接に暮らしていけたらいいな。僕は絵を描いたり彫刻をしたりするのが好きだし、以前はガラス製作もやっていた。好きなことといえば、占星術だね。占星術って本当はすごく奥が深くて、いろいろな学びがあるんだ。
ザック:僕はとにかく音楽をしていきたい。好きなミュージシャンはジェームス・ブラウン、マイケル・ジャクソン、スージー・スー、あとは The Jam。願いが叶うなら、ニューヨークや フィラデルフィア、ボストン……そういう街を巡る全米ツアーをやりたい。あとは海洋生 物学を勉強しに、学校へ行くっていうのも夢かな。でもまずは、自分自身のままでいることの重要性を示していきたい。自分を見失ったつまらない人間に辟易しているんだ。時間を無駄にしている人たちにね。そうだ、すごくいい言葉があるよ。「沈黙は死だ」。そう、自分自身がどういう人間か、何をしたいのかを積極的に声に出していくべきだと信じているんだ。
マイケル:本当にそうだね、僕も自分の幸せ を自分以外の誰かに奪われるなって思う。その誰かが時には家族だったりするけれど、家族であってもダメだ。自分にとって大事なことは花に水をやるように育てていくべきで、全部を人とシェアする必要はないんだ。社会がどういう人間になるべきかを強いてくる時も多いけれど、そういうハムスターリールの中で走り続ける必要はない。信じているものに忠実であることが大事だと思う。
ザック:最後にもう1つ言いたいことがあった。それは、「自分が持っているものを強みにしよう」ということ。日本にもゲイの若い子はいるよね? その中には葛藤している人もいるかもしれない。そういう人にこそ、この考えをシェアしたい。自分が欲しいものを手に入れるために、自分が手に入れたものを使っていこうってね。
FUMI NAGASAKA
2002年にニューヨークに渡り日本の雑誌『STREET』でフォトグラファーとして働いた後、アメリカ南部から西海岸までたくさんの人々と出会いながら旅をしている。彼らの夢や希望に耳を傾け、彼らの話を写真を通して広められる、彼女の活動の原動力となっている。2019年のベルファストフォトフェスティバルで受賞、2021年と2023年のタイラーウェッシングフォトグラフィックポートレートプライズで選ばれ、ロンドンのナショナルポートレートギャラリーでのエキジビション、2023年11月には4冊目の写真集となる Dora, Yerkwood, Walker County, Alabamaをイギ リスの出版社GOST BOOKSから出版した。彼女の仕事はニューヨークタイムズ、アトランティック、ニューヨーカー、ヴォーグ、アナザー、ダブルなどに掲載され、Googleやルイヴィトン、ディオールなどのクライアントと仕事をしている。
PHOTOGRAPHY & INTERVIEW: Fumi Nagasaka
TEXT: Chiharu Masukawa, Mika Koyanagi